歯医者のしょっぱい楽屋裏

歯科医院に潜む闇は深い。

私のモンスターペィシェント列伝❸

 モンペレベル『鬼』

突然、一方的にキレる女~その2~

前回の続きです。このエントリが初見の方は、まずは下記リンクからどうぞ。

sugiuraniki.hatenablog.com

そして治療が始まった

 心因性で持続的な強い食いしばりに由来すると思われる顎関節症様の症状の女性。ドクターショッピングの挙げ句に舞い戻ってきた時には、五十代後半になっておられました。
 まずはリカバリーから。
 しみる、痛い、をしつこく訴えたのでしょう、何人かの前医で抜髄し、治らない、根治が終わらない。それで次へ行く。そこでもまた抜髄して歯冠を落とす──どんどん咬合支持を失って、本来、とても精妙であるはずの咀嚼系は見事なまでに機能不全に陥っておりました。
 痛みから救われたい──私のところへ恥をしのんで(かどうかはわからないけれど)やってきた理由はそれでしょう。思い込みが激しい、または理解力に乏しい非歯原性疼痛の患者を納得させるためには、痛みをとってあげることこそが説得材料。説明なんかしたって無駄です。なんたって、思い込みが激しいあまり、思考が限りなく狭量になっているのですから。

 まず開口制限をなんとしないといけませんでした。1横指半しか開かない口腔内に、縁を削ったトレーをねじ込み印象。もちろん完璧ではありませんが、なんとかスプリントらしきものは製作できました。それを叩き台にして、レジンを盛ったり削ったりしていくと徐々に開口制限は解消されてくる。その間もモンペ患者は、

「早く根っこの治療をして」
「奥歯を放っておいて大丈夫なの?」

と口にしながら眉をひそめてきます。が、私は笑顔で、お任せください、を繰り返しました。当時愛読していたコミック『ブラックジャックによろしく』で小児科指導医が主人公に、

「患者とトラブっても何ひとつ良いことはない」

と諭すひとコマが脳裏に焼きついておりました。

 

 スプリントが順調に機能しだすと、痛みも和らいできます。このタイミングで、やりっぱなしになっている根管治療をさっさと片づけ始めました。前医、その前医、そのまた前医には申し訳ないけれど、本来は必要のなかった抜髄なのですから。

 しかし、私だって駆け出しの勤務医だった頃は、彼女のような強烈なオバサンに、歯が痛いから神経を取って! と迫られたら応じていたでしょう。そして後悔したに違いない──。なにせ、世界的にみても類まれなる廉価な根管治療の中では、抜髄処置は点数が突出して高いわけですから。
 彼女は、わたしがさっさと根管治療を終わらせ、痛みもなくなり、まがりなりにも普通の食生活が送れるようになったことを不思議に思っていたはずです。感謝の言葉はありませんでした。医療従事者は疾患を治して当然、患者はお客様、いや神様も同じように扱われるべき……そんなふうに思っていたのかもしれません。しかし、そんなことはどうでもよかった。目の前にぶら下がった愁訴を平らげるのみでした。なにせ、心を砕くべきを患者は彼女の他にもたくさんいたのですから。

想定外の事態

 この頃になると、彼女も疾患への理解はともかく、スプリントの有用性“だけは”気づいていたようでした。しかし、大変なのはここから。もともとラバーダムもかからないくらい歯冠長が減じていたのに加え、1年間のドクターショッピングでの根治⇒痛みが引かないから咬合を落とす、を繰り返していましたから、私に三行半を叩きつけた時より、さらに咬合高径が低くなっておりました。そこで、症状がぶり返すのを覚悟の上で、レジンTEKによる咬合挙上を行うことにしたのです。
 最初、スプリントを装着するのさえ渋っていたくらいですから、TEKにも四の五の言ってくるに違いない、そう覚悟していましたが、これは杞憂に終わりました。しかし、前医で穿孔を起こしていた歯はどうにもならない。既に膿瘍を形成しておりましたので、保存は叶わないとの判断が下りました。
 で、いざ抜歯になりますと、これがなかなか難儀なわけです。数軒のクリニックで根治を繰り返し、その度に窩壁の軟化象牙質を削りますので歯質は薄く、加えて長根。さらに軽く湾曲しておりましたので、抜歯には20分以上を要したと記憶しております。
 顎関節症の治療を手がける諸氏ならばご承知と思いますが、常に強い咬合圧を支えているせいなのか、特に下顎に於いては骨が固くなっている場合が多く、なかなか脱臼に至りません。それでもフラップを展開することなく無事、抜去することができました。やれやれとばかりに、冷や汗が目に入るのも厭わず縫合を終えましたが、問題が発覚したのは翌日でした。

「なんか変」

 SP時に、彼女がそう訴えます。もともと注文の多い人でしたからあまり気にも留めませんでしたが、抜糸予定より数日早く、彼女からの電話がありました。

「唇に感覚が無い」
 背筋が凍り付くとはこのことです。
「拝見します。すぐに来てください」
 声と脚が震えていました。昼休みでしたが、躊躇はありませんでした。

専門医へ

 遷延性知覚麻痺──零細な歯科開業医にとっては、恐ろしい病名です。しかし、間違いありませんでした。湾曲のある長根。しかしも歯冠は崩壊状態で長時間の施術。
──上位の医療機関、口腔外科へ紹介すべきであった──
 悔やんでも後の祭りです。私は麻痺した範囲を水性鉛筆でマークしながら、何度も胸のうちに呟きました。
 どうして紹介しなかったのか。理由は新型コロナでした。
 当診療所は市境に近い立地。口腔外科へ紹介する場合も、患者の多くは、同じ市内の大学病院より、隣町で近い県立病院への紹介を望みます。なのに同病院は公立故の尊大さからなのか、建前どおり感染拡大防止からの観点からなのか、
「同一市域の患者しか診ない」
方針を歯科医師会を通じて打ち出してまいりました。
 かたや大学病院も、
「緊急性を要しない紹介は受け入れません」

と、やはり歯科医師会を通じて通告していました。
 そのような事情もあって、普段なら紹介するしないかレベルの症例は、多少の汗水たらしつつも自院で処置していたというわけです。今回は、これが仇になりました。
──よりによって、この患者で事故るとは──
 私は唇を噛みながら、パノラマレントゲンを見つめます。
 長根だが、下顎管との距離はある。だとすれば、ニューロトメシス(神経断裂)の可能性は低い?

 いやいや、解剖学的に距離があるからと言って、ニューラプラキシア(一過性神経不動化)だとは限らない。歯根を介して管壁を壊していたならば前者もありうる。そうなったら、患者は騒ぎだすに違いない。

 家内や子供たちの顔が脳裏を過ぎります。ついで借金の残額も。

 悔やんでも悔やみきれませんでしたが、それでも事情を話して大学病院へ行くように説得しました。    とにかくおバカな人なので、ここで治せの一点張りでしたが、悪いようにはならないから、と根気よく穏やかに説得して、ようやくおバカな気勢を削ぐことができたわけです。

 どんなに嫌な患者でも、ひとたび治療してしまえば責任が生ずる。紹介状を手に背を向ける患者の背中に、私はため息とともに独りごちたのでした。

(つづく)