歯医者のしょっぱい楽屋裏

歯科医院に潜む闇は深い。

私のモンスターペイシェント列伝❹

モンペレベル『鬼』

突然、一方的にキレる女~その3~

 前回の続き。
 本来、必要のない抜髄処置を施された下顎小臼歯の一本が、あろうことか歯根の中程で穿孔しており、抜歯に至ったわけです。が、当該歯をパホッた前医にしても、こんなウルセー患者になにかあったらタダでは済むまい──そんなネガな思いが施術の手を鈍くしていたのかもしれません。
 最初からご覧になる方は、下記リンクからどうぞ。

sugiuraniki.hatenablog.com

大学病院で予想外の展開~その1~

 彼女を大学病院へ送った当時は、新型コロナ感染の初期で、世界中が大混乱を来し、医療機関が過酷な対応に追われている真っ最中でした。だから大学病院も、不要不急な症例は受け付けない、紹介しても門前払いを食らうことがしばしばだったそうです。しかし、ファクシミリで送致依頼を送り、すぐさま受け入れ承認の返信がありました。なにせ、紹介目的が遷延性麻痺の治療。この重要性をわからない歯医者はモグリでしょうから。
 しかも担当医は医局の初診担当ではなく、教授。さすが、わかってらっしゃる──。教授とはまったく面識はありませんでしたが、同門のありがたさを感じずにはおれませんでした。
 依頼先はペインクリニックしか考えられませんでした。もしも神経繊維が完全に断裂しているのなら、ダメもとで神経移植くらいしか回復の見込みはないわけです。
 鬱々とした日が続きました。彼女は自分が経験したうちでワースト3くらいのモンスターペイシェントではありましたが、“わたしが治療したペイシェント”なのですから、施術の結果については無過失であったとしても一定の責任は覚悟せねばなりません。
「俺はいったい、苦労するために歯医者になり、モンペに心を削られるために開業したのだろうか……」
 寝ても覚めても自問していました。そんな折、モンペオバサンが大学からの連絡状を手にやって来ました。

 開封し、震える手で書面を開きますと、予想外の内容が記されていました。
 診断は、抜歯後の内出血によるニューラプラキシア。
 神経繊維の断裂はなく、歯槽骨内部で出血が生じ、それが下顎神経を圧迫して一時的に神経伝導が障害された旨のことが書かれておりました。既に知覚は回復し始め、オトガイ孔相当付近の皮膚に黄色い陳旧性出血斑が浮かんでおります。胸をなでおろしたのは言うまでもありません。
 難抜というわけでもありませんでしたが、終わりよければすべて良し、とばかりに張り切って顎関節症の治療を再開したという次第です。

 

大学病院で予想外の展開~その2~ 

 前回エントリでも書きましたが、本来なら不要の根治に加え、強い咬合圧のため歯冠長が著しく低く、全顎にTEKや補綴処置による咬合挙上を図りつつ、バイトプレーンを活用して咬合低位の部分の廷出を促していましたが、前医での根治部分がネックになりました。TEKの破損とダツリが頻繁に起こりましたが、同時にそれは彼女がアポ外でいきなり飛び込んでくるということも意味しました。
 その度に、顎関節症の症状が強くなる⇒咬合を支えている有髄歯にはヒス症状が、側頭筋、内側翼突筋部とみられる咀嚼筋の痛みが頻発していきます。そして、その度に治療はストップ、下手したらTEKの再製もありましたし、なにしろ予期せぬタイミングで時間を浪費しますのでモンペ、わたしを含めたスタッフの双方にストレスがたまっていきました。
 案の定でした。
「この治療、いつになったら終わるのよ!」
 いつか食らうと予期していた悪罵。そう、顎関節症の治療に終わりは来ない。もしも終わりがあるとすれば、患者が充分に発症のメカニズムと、治療の意義を理解し、術者に協調的であることが必要条件。加えて、患者のストレスが減じられていること──ありていに言えば、幸せに暮らしていることが条件です。しかし、それは絶対にない、と絶望していました。
 顎関節症の治療も大学に丸投げしちゃえば良かった
 そんな後悔が頭を頻繁によぎり始めたある日、決定的な事件が起こります。
 ある日の終業間近、モンペオバサンから電話が入ります。
「取れたからなんとかしてくれ」
 と言った趣旨だったようですが、受付の眉根に寄ったしわが、嫌な予感を醸しだしていました。いつものように、予約の患者を無視して招き入れましたが、診察室に入った時点から様子がおかしかった。唇は尖り、うつむき加減でズカズカと足音を立ててユニットに座ります。
「これ」
 そう抑揚のない声で言って彼女がトレーの上に転がしたのは、お初に脱落したブリッジTEKでした。
「いつ取れたのです?」
 私が問えば、
「たった今よ。自動車学校で教習中に取れたの。おかげで補習がついちゃたんですけどお。なんにも食べていないときに取れるって,どういうことよ? 仮歯だからって、いい加減に作ってんじゃないの?」
 カチンときました。
 しかし、ここで揉めても詮ないこと。やっかい者はさっさと帰宅させ、本来のアポに戻らなければなりません。
 セメントは仮着用ではなく、強力なカルボキシレートセメントでした。それを超音波スケーラーとサンドブラスターで除去しながら、TEKが頻繁にダツリする原因がわかってきました。
 彼女がダツリしたと電話をよこすのは決まって夕刻。バイトプレーンを使用している夜間は当然として、朝食後も無事。食事がきっかけでないことは想像に難くありませんでした。そして今回はヒントがありました。自動車学校での教習中でのダツリ。キレすく、寛容のかけらすらない彼女の性格からして、教習そのものはもちろん、教官とのやりとりでストレスを感じて強く食いしばっていたのではないか。
 しかし、それを指摘したところで納得するはずはありません。とりあえずTEKを再装着して、日中も極力バイトプレーンを装着するように言おう、そう思いながら、TEKを口腔内に試適しましたら……なんと、支台歯がハセツしておりました。ダツリの原因はこれでした。出血は軽微でしたが、歯肉がふらふら。腹を括らざるを得ませんでした。
「何か嫌なこと、頭にくることがあったのではないですか?」
「あったわよ。仮歯が取れたこと」
「じゃなくて、その前に何かあったでしょう?」
「責任逃れするつもり? 歯茎が痛いのだって、あんたが作った仮歯がテキトーだったからじゃないの?」
 いけないことでしたが,思わず舌打ちしてしまいました。
「取れる前に、口の中から何かカケラのようなものが出ませんでしたか?」
 そう言って背を向けました。消毒室へ逃げて、頭を冷やしてくるために─────すると
「そんなひどい言い方しなくたっていいじゃないですか!」 
 声を荒らげたのは、傍らでことの成り行きを見守っていた歯科衛生士でした。
「私たちはね、医療関係者である前に、人間なんです。それなのになんですかあなたは! 言いたい放題で、こっちだって我慢しているんですよ!」
 モンペは衛生士の反撃でさらに激昂し、わけのわからない言葉を叫んでいましたが、覚えてなんかいません。しかし、モンペが発した次の言葉で我慢ができなくなりました。
「大学の教授も言ってたよ。あの先生は変わり者だ。変な先生だって。こんなヤブにかかったあたしがバカだった!」
 私は額に装着していたルーペを鷲掴みにして、床に叩きつけました。患者を傷つけてしまったら犯罪です。もったいないけど、やり場の無い感情は物を壊すことでしか解消できませんでした。

 ペインクリニック教授からの返書で知っていましたが、なんと、モンペと教授は幼なじみだったのです。麻痺の治療がスムーズに進んだのも、旧交を温めながらなのでしたら得心が行きます。加えて、教授が言うように、わたしは母校にあっては特異な存在なのでした。良く言えば異能者、悪く言えば変わり者。大学職員のなかには、私のことをよく思っていない者がいても不思議ではないのでした。

 私の剣幕と、床に散らばったルーペの破片を目の当たりにした患者は、
「こーわーいーっ!」
 こっちが怖いわ。そう突っ込みかけましたが、受付係が割って入ります。彼女もまた、両の拳を腰に当て憤っていました。
「料金はいりませんから、もうお帰りください、他の患者さんに迷惑です」

 おいおい、それを言うのは俺だろう?
 と口から飛び出しそうでしたが、衛生士に脱離箇所をユージノールで埋めるよう指示して、院長室へ向かいました。
 ペインクリニックの教授に、言質を確かめるためでした。もしもモンペが言う通り、彼が私の名誉を傷つける発言をしていたのなら、何らかの措置を講じるつもりで。

(つづく)

私のモンスターペィシェント列伝❸

 モンペレベル『鬼』

突然、一方的にキレる女~その2~

前回の続きです。このエントリが初見の方は、まずは下記リンクからどうぞ。

sugiuraniki.hatenablog.com

そして治療が始まった

 心因性で持続的な強い食いしばりに由来すると思われる顎関節症様の症状の女性。ドクターショッピングの挙げ句に舞い戻ってきた時には、五十代後半になっておられました。
 まずはリカバリーから。
 しみる、痛い、をしつこく訴えたのでしょう、何人かの前医で抜髄し、治らない、根治が終わらない。それで次へ行く。そこでもまた抜髄して歯冠を落とす──どんどん咬合支持を失って、本来、とても精妙であるはずの咀嚼系は見事なまでに機能不全に陥っておりました。
 痛みから救われたい──私のところへ恥をしのんで(かどうかはわからないけれど)やってきた理由はそれでしょう。思い込みが激しい、または理解力に乏しい非歯原性疼痛の患者を納得させるためには、痛みをとってあげることこそが説得材料。説明なんかしたって無駄です。なんたって、思い込みが激しいあまり、思考が限りなく狭量になっているのですから。

 まず開口制限をなんとしないといけませんでした。1横指半しか開かない口腔内に、縁を削ったトレーをねじ込み印象。もちろん完璧ではありませんが、なんとかスプリントらしきものは製作できました。それを叩き台にして、レジンを盛ったり削ったりしていくと徐々に開口制限は解消されてくる。その間もモンペ患者は、

「早く根っこの治療をして」
「奥歯を放っておいて大丈夫なの?」

と口にしながら眉をひそめてきます。が、私は笑顔で、お任せください、を繰り返しました。当時愛読していたコミック『ブラックジャックによろしく』で小児科指導医が主人公に、

「患者とトラブっても何ひとつ良いことはない」

と諭すひとコマが脳裏に焼きついておりました。

 

 スプリントが順調に機能しだすと、痛みも和らいできます。このタイミングで、やりっぱなしになっている根管治療をさっさと片づけ始めました。前医、その前医、そのまた前医には申し訳ないけれど、本来は必要のなかった抜髄なのですから。

 しかし、私だって駆け出しの勤務医だった頃は、彼女のような強烈なオバサンに、歯が痛いから神経を取って! と迫られたら応じていたでしょう。そして後悔したに違いない──。なにせ、世界的にみても類まれなる廉価な根管治療の中では、抜髄処置は点数が突出して高いわけですから。
 彼女は、わたしがさっさと根管治療を終わらせ、痛みもなくなり、まがりなりにも普通の食生活が送れるようになったことを不思議に思っていたはずです。感謝の言葉はありませんでした。医療従事者は疾患を治して当然、患者はお客様、いや神様も同じように扱われるべき……そんなふうに思っていたのかもしれません。しかし、そんなことはどうでもよかった。目の前にぶら下がった愁訴を平らげるのみでした。なにせ、心を砕くべきを患者は彼女の他にもたくさんいたのですから。

想定外の事態

 この頃になると、彼女も疾患への理解はともかく、スプリントの有用性“だけは”気づいていたようでした。しかし、大変なのはここから。もともとラバーダムもかからないくらい歯冠長が減じていたのに加え、1年間のドクターショッピングでの根治⇒痛みが引かないから咬合を落とす、を繰り返していましたから、私に三行半を叩きつけた時より、さらに咬合高径が低くなっておりました。そこで、症状がぶり返すのを覚悟の上で、レジンTEKによる咬合挙上を行うことにしたのです。
 最初、スプリントを装着するのさえ渋っていたくらいですから、TEKにも四の五の言ってくるに違いない、そう覚悟していましたが、これは杞憂に終わりました。しかし、前医で穿孔を起こしていた歯はどうにもならない。既に膿瘍を形成しておりましたので、保存は叶わないとの判断が下りました。
 で、いざ抜歯になりますと、これがなかなか難儀なわけです。数軒のクリニックで根治を繰り返し、その度に窩壁の軟化象牙質を削りますので歯質は薄く、加えて長根。さらに軽く湾曲しておりましたので、抜歯には20分以上を要したと記憶しております。
 顎関節症の治療を手がける諸氏ならばご承知と思いますが、常に強い咬合圧を支えているせいなのか、特に下顎に於いては骨が固くなっている場合が多く、なかなか脱臼に至りません。それでもフラップを展開することなく無事、抜去することができました。やれやれとばかりに、冷や汗が目に入るのも厭わず縫合を終えましたが、問題が発覚したのは翌日でした。

「なんか変」

 SP時に、彼女がそう訴えます。もともと注文の多い人でしたからあまり気にも留めませんでしたが、抜糸予定より数日早く、彼女からの電話がありました。

「唇に感覚が無い」
 背筋が凍り付くとはこのことです。
「拝見します。すぐに来てください」
 声と脚が震えていました。昼休みでしたが、躊躇はありませんでした。

専門医へ

 遷延性知覚麻痺──零細な歯科開業医にとっては、恐ろしい病名です。しかし、間違いありませんでした。湾曲のある長根。しかしも歯冠は崩壊状態で長時間の施術。
──上位の医療機関、口腔外科へ紹介すべきであった──
 悔やんでも後の祭りです。私は麻痺した範囲を水性鉛筆でマークしながら、何度も胸のうちに呟きました。
 どうして紹介しなかったのか。理由は新型コロナでした。
 当診療所は市境に近い立地。口腔外科へ紹介する場合も、患者の多くは、同じ市内の大学病院より、隣町で近い県立病院への紹介を望みます。なのに同病院は公立故の尊大さからなのか、建前どおり感染拡大防止からの観点からなのか、
「同一市域の患者しか診ない」
方針を歯科医師会を通じて打ち出してまいりました。
 かたや大学病院も、
「緊急性を要しない紹介は受け入れません」

と、やはり歯科医師会を通じて通告していました。
 そのような事情もあって、普段なら紹介するしないかレベルの症例は、多少の汗水たらしつつも自院で処置していたというわけです。今回は、これが仇になりました。
──よりによって、この患者で事故るとは──
 私は唇を噛みながら、パノラマレントゲンを見つめます。
 長根だが、下顎管との距離はある。だとすれば、ニューロトメシス(神経断裂)の可能性は低い?

 いやいや、解剖学的に距離があるからと言って、ニューラプラキシア(一過性神経不動化)だとは限らない。歯根を介して管壁を壊していたならば前者もありうる。そうなったら、患者は騒ぎだすに違いない。

 家内や子供たちの顔が脳裏を過ぎります。ついで借金の残額も。

 悔やんでも悔やみきれませんでしたが、それでも事情を話して大学病院へ行くように説得しました。    とにかくおバカな人なので、ここで治せの一点張りでしたが、悪いようにはならないから、と根気よく穏やかに説得して、ようやくおバカな気勢を削ぐことができたわけです。

 どんなに嫌な患者でも、ひとたび治療してしまえば責任が生ずる。紹介状を手に背を向ける患者の背中に、私はため息とともに独りごちたのでした。

(つづく)

 

私のモンスターペィシェント列伝❷

モンペレベル『鬼』

突然、一方的にキレる女 

 いったい何が気に食わないのか、何に腹を立てているのかわからない人ってけっこう遭遇しますよね。今回の報告はそんな受け身の取りようのないモンペです。前回よりモンペレベルがひとつあがりまして今般は『鬼』です。乞ご期待(笑)

 最初はごく普通の患者だと思っていました。ただ、ちょっと理解力に乏しいというか、例え話を駆使したり、表現を平易にしないと理解できない……まあ、どこにでもいるような患者です。
 カルテ番号も若く開業当初からの患者で、愁訴は毎回決まっていて、何かが取れた、歯が欠けた。咬合面をみれば、30歳代なのに咬頭は低く平坦に削れ、そのせいか咬合高径も低くなったのでしょう、常に口角にしわが寄って唾液で濡れているため、晩秋から早春にかけては頻繁に口角炎になっていました。
 強い食いしばりがあるものの、彼女自身それには気づいておらず、私もさして注意を喚起することもせず、ダツリ⇒インレーセット、欠け⇒充填を繰り返し、短期間で治療を終えるパターンでしたが、それがある日を境に一変します。

 彼女がモンペ化する前夜、平成大不況、失われた20年に加え、新型コロナが上陸し、地方の経済は壊滅的な打撃を被っておりましたが、彼女が勤務する某百貨店にも不景気の波が押し寄せます。人流が途絶えた繁華街に立地する某老舗百貨店は、買い物の郊外化の波に乗れず、コロナ禍にトドメを刺される格好で閉店、ライバル百貨店への統合が決まっていました。
 そのニュースが報じられるタイミングで、彼女が受診します。愁訴は「歯が痛い」

 私は予てより、いつかはこうなるだろうと予見しておりました。咬合高径を減じるほどのブラキサーですから、遅かれ早かれ顎関節症もしくはその関連症状を引き起こすだろう、そう踏んでいたのです。
 彼女の愁訴は歯の痛みではありましたが、いったいどこが痛いか、どんな場合に、どういう情況で痛いか、彼女自身まっく答えることができません。開口制限もあったたためパノラマレントゲンにて顎関節の断層像を得ますと案の定、関節頭の変形と後方変移を認め、側頭筋と咬筋に強い圧痛を触診で訴えるに至り、顎関節症の関連症状を強く疑いました。

非歯原性疼痛につきまとう厄介な問題

長年、仕事をしてきた職場が閉店となり、新しい職場で新しい上司……自分よりふたまわりも年下の先輩の指導を仰ぐことになったのがストレス、自動車の運転免許が無いから通うのがたいへん等と治療そっちのけで愚痴を並べます。もうこの時点で、彼女の愁訴が非歯原性疼痛であることを強く疑っていました。

口腔内を拝見すると、彼女が指摘する部位にC2程度のカリエスを認めます。しかし、軟化象牙質は薄く、冷風にも強い反応はない。なのに症状は「咬むと痛い」、「口全体がしみる」ですから、彼女の訴えと現症に整合性はありません。

既に診断にあたりはついておりましたが、いつものことながら非歯原性疼痛はここからが大変。患者の多くが、歯が原因、歯をなんとかすれば痛みは消えると思い込んでいますから、この誤解を解くのが一苦労なのです。そして彼女もこの例に漏れませんでした。

 私がパノラマレントゲンを示しながら、顎関節の異常と、頭痛や肩こりが閉口筋の筋肉痛に由来することを説明しましても、うなずきもしません。段々と表情が険しくなり、蛇蝎でも見るかのような鋭い眼差しで睨みつけてきます。やがて、
「そんな、いい加減なことをダラダラと喋ってないで、さっさと神経を抜きなさいよ。あたし、注射される覚悟で来てるんだからさ、時間がもったいないわよ。これから自動車学校にも行かなくちゃならないし」
 とりつく島もありませんでした。それでもわたしはパノラマを示しながら、

「あなたの虫歯は神経に達していません。痛くもない歯、原因でもない歯の神経を取ることはできません」
 そう言いましたが、この手の症状には不可逆的変化を与えずに、精神的な安寧に導くのがまず第一義です。カリエスにCC、ユージノールでも突っ込んでおけばよいように思うかもしれませんが、その処置が新たな症状を追加するきっかけにになる可能性もあります。現に、心因性の歯科疾患として日常的によく遭遇する舌痛症の症状さえ現れておりましたから。
 はっきり言って“おバカ”な方でしたが、おバカ故に憎めない面もあり、なんとか心を落ち着けようと腐心していました。
「とっとと虫歯を詰めるか、神経を抜くかしなさいよ!」
 そんな強弁を浴びながらも、なんとか舌痛症への対処をレクチャーしましたが、とにかく詰めろ、抜髄しろと一歩も引かないとあっては、私も匙を投げざるを得ませんでした。

「どうやら、私はあなたにとってやぶ医者のようです。あなたの願いを叶えてくれるやさしい歯医者のところへ行けばいい」
 という趣旨の言葉を、ややぞんざいに告げながらエプロンを強引にはぎ取ってしまいました。すると、
「ひどい言い方。あまりに失礼じゃないですか?」
 じゃあ、あんたはひどい言い方はしていないんだね?
そう喉まで出かかりましたが、とにかく一刻も早く帰ってほしい、厄介払いしたい、その思いから笑顔を取り繕い、
「よく患者さんにも言われるんですよ。言い方が雑だって。あははは……」
 と患者の仏頂面に乾いた笑いを投げつけました。これで、こんな面倒くせーやつを診ないで済む、そう割り切った次の瞬間、

「また来ます」

 と、ゾッとするような言葉を残して彼女は踵を返しました。

 

ドクターショッピングの顛末

理解力のない患者と申しますか、独自の価値観を捨てない人と申しますか、術者がコントロールできない人ほど厄介なものはありません。
「また来ます」という氷のようなトーンが、その日を境に鼓膜の奥にフラッシュバックするようになりました。

 が、彼女は来ませんでした。しばらくの間は、ですけれど。
 そして1年近くを経たある日、彼女の深刻な表情が受付にありました。
「痛いんです、先生。助けてください」
 これまでの非礼を詫びるなら快く受け入れたのでしょうが、私は敢えて、
「予約の患者さんが優先ですから、手が空いたら応急処置くらいはします。お待ちになれないほど痛いのでしたら、時間の無駄になりますから、どうか余所の先生へ行った方が得策です」
 と平板に告げて背を向けました。

 その日はたまたま、矯正のブラケット接着やら、ブリッジ形成&TEK直接セットと予定が立て込んでいました。わたしは開業以来ずっと、飛び込み患者には冷淡に対応してきましたし、ましてや散々に狼藉を働いた彼女に対しても、なんら良心の呵責はなかった……というのは嘘になります。
 医療人とは、助けを求めてくる人には手をさしのべたくなるもの、そう教育されてきましたし、それが歯科医を志したときからの信念でもありました(最近は、そうでもありませんが(笑))。ですから首尾よくブリッジTEKをこしらえ、彼女を招き入れました。
 案の定でした。
 かつてのC2は抜髄されていて未根充、隣在歯も同様の状態です。聞けば、私に捨てぜりふを残したあとはやはり当診療所の敷居は高く、近隣の先生にかかったとのこと。そこで、彼女の望みどおり抜髄処置を施されたわけですが、話を聞いているだけで、それからどういう経過を辿ったか、ありありと目に浮かぶようでした。
 望みどおり抜髄したけど痛みは引かない。そればかりか、他の歯が強くしみるようになった。そこも抜髄。さらに痛みが広がり、今では顔面の半分、ひどい時には後頭部から首筋まな痛くなる。
 彼女の訴えをひととおり聞いて、いざ口腔内を拝見……と思いましたが、上下切歯間で1横指半程度しか開口できませんでした。
 ここに至り、彼女もようやく私の言葉に耳を貸す気になり、わたしも治療に踏み切ったわけです。この決断が地獄の一丁目になるとも知らずに。
(つづく) 

私のモンスターペイシェント列伝❶ 

はじめに

投稿プラットホームをはてなブログに変えて新シリーズをお送りします
これから書く内容は、タイトルのとおり、これまでにわたしが経験した問題患者、所謂モンスターペイシェントとのエピソードです。
一般に“モンペ”という略称は学校現場でのモンスターペアレントを指すようですが、医療の世界ではモンペ=問題患者を指す蔑称であることは当ブログを読もうと思った方なら常識。以後、当ブログでは「モンペ」で統一していきたいと思います。


モンペにもグレードがある

ひとくちにモンペと言っても、日常的に遭遇する嫌味な患者から、刑事事件にまで発展する劇ヤバケースもあるわけです。現にわたくし自身、刑事事件にまで至った例を経験しておりまして、今にして思えば命の危険さえあったのではないかと心寒い思いを今あらたにしております。
わたくしが鮮明に記憶している事件としては、岐阜県で発生した痛ましいコレ

breaking-news.jp

他には、被害者が歯科医ではありませんが、旧ソ連の軍用拳銃トカレフを一躍有名にしたこの事件が心に深く突き刺さって警鐘を鳴らし続けております。

ja.wikipedia.org

とにかく命まで奪われてしまっては元も子もないわけですが、そもそも医療に従事する者は、その教育課程のいずこかで利他、他愛を叩き込まれていますから、他人からから恨まれたり、ましてや暴言や危害を加えられるようなつもりはまったくないはでずです。しかし現実には、モンペという言葉が存在し、基幹病院の多くに、顔面威圧係と自嘲する警察OBが常駐していたりする。特に最近、医療費の窓口負担が増加したり、トンデモ情報を流布して恥じない愚か者が煽るせいか、いつの間に医療職は批判やクレームの対象になりがちで、つい先日も浦和の郵便局に立てこもった高齢の犯人によって狙撃される事件があったばかり。これは非常〜に由々しき事態で、被害に遭われた医療職の心中やいかばかりかと思います。なにせ患者を救い疾病の快癒を願っていたはずですから。

そんな医療職の真心を踏みにじる輩がモンスターペイシェントであるわけですが、彼らを影響の大きさから、『狼』『虎』『鬼』『龍』の4グレードにカテゴライズして語っていく所存です。これは私が大好きなヒーローマンガ、ワンパンマンに頂戴したものです。当ブログのアイキャチ画像も主人公・サイタマを拝借。アニメ化もされておりますが(現在シーズン3製作中)原作は無料で読めますしホント面白いのでお勧めの一作です。

tonarinoyj.jp

それでは、最初のモンペ。

モンペレベル虎

『わたし、プロなんですけど』

最終の患者が早々と終わり、そそくさと後片付けをしている晩秋の夕刻のことでした。
顔を苦痛にゆがめた見知らぬ中年の女性が、スリッパも突っかけずにズカズカと入ってきます。そして受付に、

「痛いんでこれから診てもらえます?」

と、受付カウンターに肩肘突いた姿勢で要求してきました。

 このパターンはマズイことが起こる──経験に鍛えられた直感が私の背中を強く押します。
「おうおうにいちゃん、ちぃとばかしツラ貸せや」
のスタイルといったらお分かりになるかと思いますが、そんな否応ない態度で迫られては受付係もびびってしまいます。至極当然に、私が応対に立ちました。
 もしかしたら、あまりの痛さに余裕を無くしているかもしれない──そんな医療人なら殆どの者が備えている憐憫のせいで、とりあえず耳を傾けることにしました。背後ではDHが、飛び込みでも対応OKのサインを送ってきます。ならばとばかりに、招き入れましたが、わたしの直感はど真ん中命中でした。
どうされましたか?

モンペ「右上の6番が痛くてたまらないので、抜髄してくれませんかね」
 右上の6番……この言葉を耳にした時点で、失敗したことに気づいておりました。それでも気を取り直して、というより、一秒でも早くお引き取りねがうべく、とりあえず口腔内を拝見しますが、患者の言う右上6番にはカリエスどころか、修復処置の痕跡すらありません。それでも隣接面に見落としがある可能性を考えてレントゲン撮影を行いましたが、案の定カリエスフリー。その画像を提示しながら、あらためて患者に向き合います。
「あなたの言う右上6は、なんら問題ないようです。どこか他の箇所と間違えているということはないのですか?」
「そんなことは絶対にありません。私、氷をかじって確かめたんです。しみるのは間違いなく右上6なんです!」
 (チェッ、ぜんぜん急患案件じゃねーよな、という言葉を無理やり飲みこんで)
「……では痛いのではなくて、しみるのですね?」
 わたしをジロリと睨みつけてから「そうです、痛いくらいしみるんです!」
 そう強く言われては、私も確かめざるをえません。しかし、スリーウェイシリンジでエアーを吹きかけても、冷水診のために用意している氷水を含ませても痛みを訴えることはありませんでした。
「しみないようですね。たまたまアイスクリームをかじっ……」
 大声が遮ります

「今日はしみないんです。しみる時は頭にキーンと来るほど痛くて、耳の後ろまで痛くなるんですぅ!」
 ここまでのやりとりで、診断がついた方もけっこうおられるのではないかと思います。彼女の態度、口ぶり、カリエスフリー、不定な冷水痛、側頭部へ放散する痛み……。私もこの時点で診断が明確についておりました。しかし、モンペおばさんは矢継ぎ早にまくし立てます。
「ここに来る前に、K歯医者に行ったのよ。しみるから抜髄してくれって頼んでも、なんかわけのわからない説明を並べて、様子を見ろって言うから私、怒って飛び出してきたんさ」

「その足で、私のとこへ来たと?」
「そう。私だってヒマじゃないんだから、さっさと抜髄してよっ!」

 患者が前医であるK先生の悪口を言っているあいだに、保険証に目を通します。どうやら彼女は、市内中心部にあるウハ審美歯科の歯科衛生士であること。そこは強引な自費誘導を衛生士に業務の一部(大半?)として課しているらしいこと、40万近い月給も、おそらくインセンティブ付きであろうこと、派手な集客をラジオ、ネットで行っていること、さらには、万年求人が出ていることから、県名では最も香ばしい医院のひとつに数えられておりました。
 そして下顎に隆々と盛り上がる骨瘤を確認した上で、おもむろに告げます。
「あなたが言う、右上6番は抜髄する必要はありません。ざっくりと言えばストレスが原因で、日頃のイライラやお悩みを緩和しながら、薬物やスプリントなどで……」」
 この時点で患者は唇を噛みながら、舌打ちを漏らしつつ、ジロリと睨めつけてきます。

「あんた、なんだかんだ言って、早く帰りたいだけなんでしょう? これから大臼歯の抜髄なんか面倒だもんね。私、プロなんだからね。そんな子供だましの説明でだまされるもんか!」
 そう言うが早いか、ユニットから飛び下りると、受付にあった自分の保険証を引っ掴み、料金も支払わずに去っていきました。
 追いかけませんでした。何か会ったら料金未払いを逆手にとればいいですし、初診料やレントゲン代金も手切れ金だと思えばなんのことはない。

 強い食いしばりに継発したl非歯原性疼(心因性

 私が下した診断はそれでした。つい最近、ひょんなきっかけで前医のK先生にお尋ねする機会があったのですが、彼女のことはよく覚えていました。そして彼が下した診断も同じでありました。互いの懸命な判断を讃えあいながら、生ビールのグラスを傾けた次第です。

アナリシス(分析)

 歯科の業務経験者は、時に厄介な場合があります。カリエス歯周病ならば理解しやすいのでしょうが、このケースのように非歯原性疼痛は説明に苦慮します。この疾患を手がけない先生のところに勤務する衛生士、歯科助手はまずわからない、と断言しておきます。なにせ、先生がわからないのですから。
 わたしの経験では、非歯原性疼痛と判断した際、原因と痛みのメカニズム、治療方針を時間をかけて説明するのですが、おそらく患者の理解度は半分ほどでしょう。半信半疑であっても、治療が進み、次第に症状が緩和してくると多くの患者がこちら側に来てくれるのですが、それでも1割程度は、私を信じきれずに脱落します。残念ながら患者のIQ、EQ(情緒指数)によるところが大きいと思いますが、治療が奏効すれば彼らは絶大なファン患者となって長く通ってくれるはずです。現に当診療所のメインテナンス患者は、歯周病より非歯原性疼痛の患者の方が多いくらい。
 今般のケースでは迂闊に抜髄などしようものなら、延々と不定愁訴を訴えられエンドレスになる可能性が大。そんな患者が日々、当診療所の門を叩くのです。

 

この話、おもしろい後日談がありまして、それはまたのちほど。