歯医者のしょっぱい楽屋裏

歯科医院に潜む闇は深い。

私のモンスターペィシェント列伝❷

モンペレベル『鬼』

突然、一方的にキレる女 

 いったい何が気に食わないのか、何に腹を立てているのかわからない人ってけっこう遭遇しますよね。今回の報告はそんな受け身の取りようのないモンペです。前回よりモンペレベルがひとつあがりまして今般は『鬼』です。乞ご期待(笑)

 最初はごく普通の患者だと思っていました。ただ、ちょっと理解力に乏しいというか、例え話を駆使したり、表現を平易にしないと理解できない……まあ、どこにでもいるような患者です。
 カルテ番号も若く開業当初からの患者で、愁訴は毎回決まっていて、何かが取れた、歯が欠けた。咬合面をみれば、30歳代なのに咬頭は低く平坦に削れ、そのせいか咬合高径も低くなったのでしょう、常に口角にしわが寄って唾液で濡れているため、晩秋から早春にかけては頻繁に口角炎になっていました。
 強い食いしばりがあるものの、彼女自身それには気づいておらず、私もさして注意を喚起することもせず、ダツリ⇒インレーセット、欠け⇒充填を繰り返し、短期間で治療を終えるパターンでしたが、それがある日を境に一変します。

 彼女がモンペ化する前夜、平成大不況、失われた20年に加え、新型コロナが上陸し、地方の経済は壊滅的な打撃を被っておりましたが、彼女が勤務する某百貨店にも不景気の波が押し寄せます。人流が途絶えた繁華街に立地する某老舗百貨店は、買い物の郊外化の波に乗れず、コロナ禍にトドメを刺される格好で閉店、ライバル百貨店への統合が決まっていました。
 そのニュースが報じられるタイミングで、彼女が受診します。愁訴は「歯が痛い」

 私は予てより、いつかはこうなるだろうと予見しておりました。咬合高径を減じるほどのブラキサーですから、遅かれ早かれ顎関節症もしくはその関連症状を引き起こすだろう、そう踏んでいたのです。
 彼女の愁訴は歯の痛みではありましたが、いったいどこが痛いか、どんな場合に、どういう情況で痛いか、彼女自身まっく答えることができません。開口制限もあったたためパノラマレントゲンにて顎関節の断層像を得ますと案の定、関節頭の変形と後方変移を認め、側頭筋と咬筋に強い圧痛を触診で訴えるに至り、顎関節症の関連症状を強く疑いました。

非歯原性疼痛につきまとう厄介な問題

長年、仕事をしてきた職場が閉店となり、新しい職場で新しい上司……自分よりふたまわりも年下の先輩の指導を仰ぐことになったのがストレス、自動車の運転免許が無いから通うのがたいへん等と治療そっちのけで愚痴を並べます。もうこの時点で、彼女の愁訴が非歯原性疼痛であることを強く疑っていました。

口腔内を拝見すると、彼女が指摘する部位にC2程度のカリエスを認めます。しかし、軟化象牙質は薄く、冷風にも強い反応はない。なのに症状は「咬むと痛い」、「口全体がしみる」ですから、彼女の訴えと現症に整合性はありません。

既に診断にあたりはついておりましたが、いつものことながら非歯原性疼痛はここからが大変。患者の多くが、歯が原因、歯をなんとかすれば痛みは消えると思い込んでいますから、この誤解を解くのが一苦労なのです。そして彼女もこの例に漏れませんでした。

 私がパノラマレントゲンを示しながら、顎関節の異常と、頭痛や肩こりが閉口筋の筋肉痛に由来することを説明しましても、うなずきもしません。段々と表情が険しくなり、蛇蝎でも見るかのような鋭い眼差しで睨みつけてきます。やがて、
「そんな、いい加減なことをダラダラと喋ってないで、さっさと神経を抜きなさいよ。あたし、注射される覚悟で来てるんだからさ、時間がもったいないわよ。これから自動車学校にも行かなくちゃならないし」
 とりつく島もありませんでした。それでもわたしはパノラマを示しながら、

「あなたの虫歯は神経に達していません。痛くもない歯、原因でもない歯の神経を取ることはできません」
 そう言いましたが、この手の症状には不可逆的変化を与えずに、精神的な安寧に導くのがまず第一義です。カリエスにCC、ユージノールでも突っ込んでおけばよいように思うかもしれませんが、その処置が新たな症状を追加するきっかけにになる可能性もあります。現に、心因性の歯科疾患として日常的によく遭遇する舌痛症の症状さえ現れておりましたから。
 はっきり言って“おバカ”な方でしたが、おバカ故に憎めない面もあり、なんとか心を落ち着けようと腐心していました。
「とっとと虫歯を詰めるか、神経を抜くかしなさいよ!」
 そんな強弁を浴びながらも、なんとか舌痛症への対処をレクチャーしましたが、とにかく詰めろ、抜髄しろと一歩も引かないとあっては、私も匙を投げざるを得ませんでした。

「どうやら、私はあなたにとってやぶ医者のようです。あなたの願いを叶えてくれるやさしい歯医者のところへ行けばいい」
 という趣旨の言葉を、ややぞんざいに告げながらエプロンを強引にはぎ取ってしまいました。すると、
「ひどい言い方。あまりに失礼じゃないですか?」
 じゃあ、あんたはひどい言い方はしていないんだね?
そう喉まで出かかりましたが、とにかく一刻も早く帰ってほしい、厄介払いしたい、その思いから笑顔を取り繕い、
「よく患者さんにも言われるんですよ。言い方が雑だって。あははは……」
 と患者の仏頂面に乾いた笑いを投げつけました。これで、こんな面倒くせーやつを診ないで済む、そう割り切った次の瞬間、

「また来ます」

 と、ゾッとするような言葉を残して彼女は踵を返しました。

 

ドクターショッピングの顛末

理解力のない患者と申しますか、独自の価値観を捨てない人と申しますか、術者がコントロールできない人ほど厄介なものはありません。
「また来ます」という氷のようなトーンが、その日を境に鼓膜の奥にフラッシュバックするようになりました。

 が、彼女は来ませんでした。しばらくの間は、ですけれど。
 そして1年近くを経たある日、彼女の深刻な表情が受付にありました。
「痛いんです、先生。助けてください」
 これまでの非礼を詫びるなら快く受け入れたのでしょうが、私は敢えて、
「予約の患者さんが優先ですから、手が空いたら応急処置くらいはします。お待ちになれないほど痛いのでしたら、時間の無駄になりますから、どうか余所の先生へ行った方が得策です」
 と平板に告げて背を向けました。

 その日はたまたま、矯正のブラケット接着やら、ブリッジ形成&TEK直接セットと予定が立て込んでいました。わたしは開業以来ずっと、飛び込み患者には冷淡に対応してきましたし、ましてや散々に狼藉を働いた彼女に対しても、なんら良心の呵責はなかった……というのは嘘になります。
 医療人とは、助けを求めてくる人には手をさしのべたくなるもの、そう教育されてきましたし、それが歯科医を志したときからの信念でもありました(最近は、そうでもありませんが(笑))。ですから首尾よくブリッジTEKをこしらえ、彼女を招き入れました。
 案の定でした。
 かつてのC2は抜髄されていて未根充、隣在歯も同様の状態です。聞けば、私に捨てぜりふを残したあとはやはり当診療所の敷居は高く、近隣の先生にかかったとのこと。そこで、彼女の望みどおり抜髄処置を施されたわけですが、話を聞いているだけで、それからどういう経過を辿ったか、ありありと目に浮かぶようでした。
 望みどおり抜髄したけど痛みは引かない。そればかりか、他の歯が強くしみるようになった。そこも抜髄。さらに痛みが広がり、今では顔面の半分、ひどい時には後頭部から首筋まな痛くなる。
 彼女の訴えをひととおり聞いて、いざ口腔内を拝見……と思いましたが、上下切歯間で1横指半程度しか開口できませんでした。
 ここに至り、彼女もようやく私の言葉に耳を貸す気になり、わたしも治療に踏み切ったわけです。この決断が地獄の一丁目になるとも知らずに。
(つづく)